建学の精神
松山東雲学園の建学の精神
松山東雲学園の建学の精神は、「信仰・希望・愛」であらわされるキリスト教精神です。本学園はこの精神にもとづき、神を畏れ、神による希望に生き、神と隣人を愛する、自立した女性を育成する教育を目指します。
創設者の志
本学園の創設者二宮邦次郎は、1860年岡山県高梁に生まれ、自由民権運動に身を投じながら、小学校の教員を務めていました。20歳の時、同志社の創設者新島襄の説教を聴き、彼の人生は激変します。新島は、日本の発展のためには確かな文明の基礎が必要だと説き、それは神を信ずることと教育によってもたらされることを訴えました。特にこの時、新島は女子教育の重要性を訴えたのです。
この時以来、二宮邦次郎は新島の指し示す世界に邁進していったのです。同志社に学び、伝道者となった二宮牧師は、今治教会から派遣され、伊予小松・西条・松山に伝道を行い、1885年松山第一基督教会(現日本キリスト教団松山教会)を創設します。その翌年の1886年9月16日、二宮牧師は「私立松山女学校」を開設するのです。本学園の前身であり、四国最初の女学校の誕生でした。彼は、聖書に基づいた生命の尊厳を自覚し、賢明で自立的な、そして国際的視野をもつ人物を育てる女子教育こそ、日本の将来のために必要だと確信し、学園の基礎を築いたのです。二宮牧師の抱いた教育の理想は、女性に学問は必要ないとの当時の風潮の中で画期的な考えであるだけでなく、今もなお本学園の目指す道を指し示し続けています。
宣教師たちの働き
創設者二宮邦次郎の志を受け継いで、本学園の発展に寄与したのは、「アメリカンボード」というアメリカの伝道団体から派遣された宣教師たちの働きでした。地域社会のなかで、キリスト教主義学校である本学園が「ミッション」という名称で親しまれ、受け入れられたのも、キリスト教精神そのものを具現するような彼らの生きる姿勢からにじみ出てくる人格的感化によるものでした。松山東雲学園を愛した宣教師たちの姿は、多くの同窓生の心の中で今でも生き生きと生きています。
「信仰・希望・愛」をモットーに
二宮邦次郎牧師や宣教師たちが目指したキリスト教精神による教育は、今日も学園の各学校で継承されています。
本学園のスクール・モットーは「信仰・希望・愛」です。キリスト教精神の真髄を「信仰・希望・愛」によって語る聖書の言葉(新約聖書 コリントの信徒への手紙一 13章)に基づいて、神を畏れることを知識の基礎とし、聖書の言葉に励まされ希望をもって人生の明日を開拓し、神を愛し隣人を愛することに人間として生きる課題と使命を見い出すことが、教育の基礎であり目標と考えているのです。
また、創設者や宣教師たちが目指したキリスト教精神による教育は、学園の長い歴史の中で五箇条の言葉-「高遠なる理想」「敬虔なる信仰」「真摯なる努力」「清純なる愛情」「私心なき奉仕」-にまとめられ、「校訓」として中学・高等学校で継承されています。
学章の意味
ゆかしい色の紫地に、真白い雪びらを抜き出したものが、松山東雲学園の前身、松山女学校時代の校旗でした。したがって、雪びらが校章でした。 ところが高等学校ホイテ校長及び西村郁夫先生時代になって、生徒の胸につける徽章を制定するにあたり、聖書の信仰と希望と愛の三つを象徴する三つ葉のクローバーを選び、松山女学校の松の名残をとどめるべく、松葉をもって図案化されました。
学園名「しののめ」の由来
松山女学校として創立された母校が、1932(昭和7)年、四年制の高等女学校となる時、「松山東雲高等女学校」と名づけられました。それは、現在東雲中学・高等学校のある地域一帯の町名が「東雲」であったことと、聖書にも「われしののめを呼びさまさん」(詩篇・57)とあることによります。夜明けに輝かしい日の出を迎えるように、学園が未来に向かってすばらしい発展をするという意味の象徴です。